あらためてコリントの信徒への手紙1 10:13
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
(新共同訳)
「神は乗り越えられない試練は与えない」と、キリスト教に縁のない日本人にもことわざのように馴染みのあるフレーズだが、じつは日本語では「試練」と訳されている部分は多くの英訳版では temptation 誘惑 と訳されている
それだけでなく、神が試練から逃れる道をも用意してくれているというのはなんだか意外
調べてみると temptation の訳語はティンダルさらにはウィクリフまで遡ることができる
さすがに中世の英語は今とはだいぶ語形が違っていて shall が schal とドイツ語風の綴りになっていたりするが temptacioun が temptation の古形であろうことはすぐに分かる
John Wyclif(1395年)
Temptacioun take `not you, but mannus temptacioun; for God is trewe, which schal not suffre you to be temptid aboue that that ye moun; but he schal make with temptacioun also purueyaunce, that ye moun suffre.
William Tyndale(1530年)
There hath none other temptation taken you, but such as followeth the nature of man. God is faithful, which shall not suffer you to be tempted above your strength: but shall in the midst of the temptation make a way to escape out.
temptation の訳語をあてたのはVulgata聖書のラテン語訳を受けてのことだろう
Tentatio vos non apprehendat nisi humana : fidelis autem Deus est, qui non patietur vos tentari supra id quod potestis, sed faciet etiam cum tentatione proventum ut possitis sustinere.
wiktionaryを見ると tentatio は temptatio の異綴語とされている
temptation の語源にあたる語が使われているのだからそのまま temptation の語をあてるのは自然なことだろう
temptatio は動詞 tempto に接尾辞が付いて名詞化した語で、語義としては temptation と trial の両方があるようだ
この訳語はその後の欽定訳聖書に受け継がれ度重なる改訂でも変わらなかったが、1989年の改訂で testing と訳された後、2001年の再改訂で再び temptation に戻っている
以下は Bible.com から引用
New Revised Standard Version(1989年)
No testing has overtaken you that is not common to everyone. God is faithful, and he will not let you be tested beyond your strength, but with the testing he will also provide the way out so that you may be able to endure it.
英訳の最新改訂版 English Standard Version(2001年)
No temptation has overtaken you that is not common to man. God is faithful, and he will not let you be tempted beyond your ability, but with the temptation he will also provide the way of escape, that you may be able to endure it.
このように見てくると、英訳では temptation が定着していると考えて間違いではないと思う
それでは原文がどうなっているかが気になるところだが
πειρασμὸς ὑμᾶς οὐκ εἴληφεν εἰ μὴ ἀνθρώπινος: πιστὸς δὲ ὁ θεός, ὃς οὐκ ἐάσει ὑμᾶς πειρασθῆναι ὑπὲρ ὃ δύνασθε, ἀλλὰ ποιήσει σὺν τῷ πειρασμῷ καὶ τὴν ἔκβασιν τοῦ δύνασθαι ὑπενεγκεῖν.
試練か誘惑か問題になるのが πειρασμός で、形を変えて3回出てくる(下線部分)
πειρασμός ペイラズモス 男性名詞単数主格
πειρασθῆναι ペイラステーナイ 動詞 πειράζω ペイラズドー のアオリスト不定詞受動態
πειρασμῷ ペイラズモーイ単数与格
語義としては LSJ では tiral と temptation の両方の意味が載っているが、最新のギリシア語辞典の The Kambridge Greek Lexicon では
πειρασμός οῦ m. [πειράζω] temptation (to sin) NT.; (by the Devil) NT.
πειρασμός 第2変化の男性名詞、動詞 πειράζω から派生、語義は(罪へのまたは悪魔による)誘惑、用例はいずれも新約聖書
と temptation だけになっている
ἀνθρώπινος アントローピノス という語も解釈が難しいかもしれない
人間の 人間に属する という意味の形容詞だが、bible.hub というサイトのこの語の解説ページには
Usage: The Greek adjective "anthrópinos" is used to describe something that is characteristic of or pertaining to humans. It often emphasizes the human aspect or nature of something, distinguishing it from the divine or supernatural. In the New Testament, it is used to highlight the limitations, weaknesses, or ordinary nature of human beings in contrast to God's power and wisdom.(下線は引用者による)
「新約聖書の中では、神の力と知恵との対比で、人間存在の限界、弱さ、本性を強調するために使われる」という部分に注目すると、上記2001年改訂版の that is not common to man それは人にとってありふれたことではない という訳が納得できる
英語の if にあたる εἰ があるので、もし人間にとってありふれたことでないなら
二重否定で分かりにくいが、つまり人間にとって誘惑はありふれたこと、どこにでもあるのが誘惑、だからあなたたちを捕らえたということ
試練が人間にとってありふれたこと、どこにでもあるというのも分からなくはないが、誘惑ほどにはありふれていないような気がする^^;
εἴληφεν エイレーペン は動詞 λαμβάνω ランバノー 掴む 捕える の直接法完了形能動態3人称単数
力ずくで掴む、捕まえるという語感を持つ言葉
この文の主語は πειρασμός で 否定辞 ὀυκ があるので 掴まなかった 捕らえなかった
ところでこの文では否定辞が μή と ὀυ(母音の前で ὀυκ)の2種類使われている
この使い分けは
ὀυ による否定は事実の否定であるのに反して、μή による否定は希望、想像等、何らかの話者の主観的観点の介入したものの否定を示す。従って
ὀυ は事実の陳述を否定する。 μή は禁止(これが本来の用法である)、希望、要求、仮定、推測、想像、心配、懸念等を否定する。(高津春繁『ギリシア語文法』p.415)
掴まなかったことは事実、ありふれたことでないのは ἐι と相まって仮定、と文意に沿った使い分けが解説通りにされている
πειρασμός を誘惑としてこの節全体を訳してみると
人間にとってありふれたことではないのなら、誘惑はあなたたちを捕らえませんでした。そして神は誠実だから、あなたたちを耐えられないほどの誘惑に晒されることはお許しにならないでしょう。それだけではなく神は誘惑とともに、耐えることができる逃げ道をも用意してくださるでしょう
ことわざのように定着している理解が「試練」だとはいえ、新共同訳が英訳とは異なる解釈を採っているのはなぜだろう
門外漢ながらその理由が気になる^^;
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